東村アキコの恩師日高先生とは?「かくかくしかじか」の実話の裏側と人物像

スポンサーリンク
東村アキコの恩師日高先生とは 話題の人物

『海月姫』『東京タラレバ娘』などヒット作を次々と生み出す漫画家・東村アキコ。

その原点とも言える自伝的漫画『かくかくしかじか』には、彼女の人生を大きく変えた恩師・日高健三先生との激しくも温かい9年間が描かれています。

この記事では、「日高先生とは何者なのか」「なぜ東村アキコが深く尊敬し、映像化においてこだわったのか」を徹底解説。

原作と映画の両面から、笑いと涙の師弟ドラマの真実に迫ります。

日高先生の教育方針や、東村がどのように成長していったのかを知ることで、『かくかくしかじか』がさらに深く心に響く作品へと変わるでしょう。

シマエナガちゃん
シマエナガちゃん

モデルである日岡兼三氏についても深掘りしていますよ

作品を観ていない方はネタバレが含まれますのでご注意ください

恩師・日高健三先生とは何者だったのか?

日高先生ってどんな人だったのでしょう?

東村アキコの作品を通しての日高先生と、日高先生のモデルである日岡健三氏についてみていきたいと思います。

かくかくしかじかの日高先生

『かくかくしかじか』を語る上で欠かせない存在が、東村アキコの恩師であり、人生を大きく変えた人物、日高健三先生です。

作品を通して圧倒的な存在感を放つこの人物は、単なる「スパルタな絵の先生」にとどまらず、絵に人生をかけた純粋な魂であり、教育とは何か、情熱とは何かを問いかける存在として、多くの読者の心に深く刻まれています。

そんな彼が開いた「日高絵画教室」は、プロを目指す高校生から趣味の高齢者や子どもまで、幅広い層を相手にしながらも、誰に対しても同じく厳しい姿勢で接する場所でした。

シマエナガちゃん
シマエナガちゃん

小さい子やおじいさんにも容赦なかったわね

東村アキコはこの教室に高校3年生で通い始めます。

自分は天才だと信じて疑わなかった彼女に、日高先生は容赦ない現実を突きつけます。

「こんな絵じゃ美大は受からん」「おまえの筆は汚い」

時に竹刀アイアンクローまで持ち出しながら、彼女の甘さを打ち砕き、絵の基礎とは何かを徹底的に叩き込んでいきます。

この厳しさの裏にあったのが、教育に対する一切の妥協を許さない信念と、本当に大切なことを伝えるためには嫌われることを恐れない覚悟でした。

何度も「描けー」って言われてたね

美大進学コースの授業時間を超えてもなお月謝を上げずに無償で時間を増やすなど、情熱を注ぎ込んだ姿勢は「誰よりもお人好しの宮崎人気質」そのものでした。

『かくかくしかじか』の中では、「チンパン子」というあだ名のエピソードや、怒鳴り散らす名シーン、そして大学に入った東村に対して「絵が下手になった」と激怒する場面など、ユーモアと迫力が同居する日高先生の姿が描かれています。

しかし、そのどれもがフィクションではなく、東村自身の記憶に忠実な実体験なのです。

彼女はインタビューで「日高先生のセリフはほとんど脚色していない」「これでも控えめに描いている」と語っています。

シマエナガちゃん
シマエナガちゃん

あのセリフがフィクションじゃないってすごすぎるわ!

映画化にあたり、この重要なキャラクターを誰が演じるべきかを巡って、東村が名前を挙げ続けたのが俳優・大泉洋さんでした。

理由は明確で、「ただ怖いだけではなく、おかしみと優しさを併せ持つ人物でなければならない」からです。

何度もスケジュールの都合で断られても、彼女は諦めずにオファーを重ね続けました。そして大泉さんが脚本を読んだ結果、「これはやらせていただこう」と心を動かされたのです。

当初映像化について東村は“完璧な形での実現は不可能だろう”と断り続けていたそうですが、大泉さんの出演が叶ったこと、金沢美術工芸大学の校舎がなくなってしまうなど、すべてのタイミングが奇跡的に揃ったことで実現しました。

日高先生という存在は、東村アキコにとって単なる恩師ではなく、自分の根本を形成した“原点”とも言える人物です。

彼の教育方針は時に過激で、現代の教育観からは理解しにくいかもしれません。

しかし、「どうやって美大に受かったのか」と若い世代に聞かれるたびに東村が語るのは、「ただ描け、手を動かせ」という日高先生の言葉。

日高先生が教えてくれたのは、甘えとか逃げる気持ちを一切排除して、無になって描くことが大事なんだということ。

本物の努力とは何か、表現とは何かを叩き込んでくれた人こそが日高先生だったのです。

日高先生のモデル日岡兼三

実際の日高先生(本名:日岡兼三)は、九州を拠点に活動していた画家でありながら、美術大学の門を叩くことなく、29歳という遅咲きの年齢から画家の道を志したという異色の経歴の持ち主です。

末原晴人氏にデッサンを4年かけて学びました。

団体には属さず、あくまで独立独歩の姿勢を貫いた異端のアーティスト。

絵だけでなく音楽・文学・囲碁・空手など多くの分野で造詣が深かったようです。

昭和21年満州生まれ。その後は長く宮崎の地で過ごしました。

36歳で絵画教室をはじめ絵画製作にも力を注ぎました。

平成13年に肺がんが発覚。平成15年に57歳で亡くなりました。

奥様によると日岡氏は明るく裏表のない性格で、真面目だったそうです。

友人も多かったそうですが、頑固な面もあり思い込んだらなかなかそれを変えることはできなかったとか。

また、絵画教室の生徒だった方が次のようなことを書いておられます。

絵画教室の掃除は生徒が当番でしていたのだが、先生は一緒に床を磨きながら、床は丁寧に磨くこと、トイレを隅々まで掃除すること、手を拭くタオルの端をきちんと揃えるように諭す。
鉛筆をきれいに研ぐこと、絵の具を使った後、蓋のまわりを拭くこと、道具入れを整理整頓すること。
良書を沢山読み、世界を広く知り、自分の目で見、考え、思想を深めていくことの大切さ。
誰かの考え、兼三先生の教えにすら寄り掛かってはいけないこと。
生きとし生けるの、全ての存在それぞれに神が宿っていること。
自然は最高の師であること。友人ほど大切なものはないこと。
それらの言葉は先生の生き方そのものだった。

※日岡兼三展カタログより

この日岡氏の絵画教室はどこにあったのか気になりますが、宮崎県宮崎市ということしか公表されてません。

ただ、作品中に明子が「市民の森」というバス停で降りていることや海の近く等の情報から、以下の地図の阿波岐原森林公園 市民の森あたりであったかも知れませんね。

『かくかくしかじか』で描かれた二人の関係

『かくかくしかじか』は、東村アキコが自身の高校時代から漫画家になるまでの道のりを描いた自伝的作品です。

そしてその中心にあるのが、恩師・日高先生との9年間にわたる師弟関係

物語の冒頭で読者が出会うのは、自分を「天才」だと信じて疑わない調子のいい女子高生・明子(後の東村アキコ)。

そんな彼女を待ち受けていたのが、日高絵画教室のスパルタ先生・日高健三でした。

登場早々から放たれるアイアンクロー怒鳴り声、さらには竹刀まで飛び出す彼の指導スタイルは、明子の甘えや自信を一瞬で吹き飛ばします。

アイアン・クロー
プロレスの技のひとつ。相手の顔面を鷲掴みにして圧迫する絞め技。アメリカ人レスラー、フリッツ・フォン・エリックのフィニッシュ・ホールドとして知られる。
コトバンクより引用

しかし、この厳しさの裏には常に「本気の愛情」があったことが、物語を読み進めるうちに伝わってきます。

たとえば、明子の自画像に対して「見えてるものをそのまま描け!」と怒鳴る場面。

日高先生の怒りは、表現とは自己との対話であり、誠実さがすべてであるという信念に基づいています。

このときの明子は、自分の本当の顔と向き合うことに苦しみながらも、絵と人生に対して真剣になる決意を固めていくのです。

2人の関係が最も大きく揺れるのが、明子が美大に進学した後のエピソード。

金沢美術工芸大学での生活に疲れ、絵を描くことに迷いを感じ始めた明子を訪ねた日高先生は、彼女のアトリエを見て激怒します。

「絵が下手になっとるやないか! 筆も洗ってなくて汚い!」と声を荒らげ、明子の制作環境を一喝するシーンは、作品中でも特に印象的です。

この場面、読者からは「厳しすぎる」と感じられるかもしれません。

しかし、映画の撮影時に俳優・大泉洋が東村アキコに演技の背景を尋ねた際、彼女はこう答えました。「あれは、ただの叱咤じゃなくて、本気でブチ切れていた」

日高先生の怒りは、明子を思ってというより、「絵」という芸術に対して妥協を許さない姿勢から来たものだったのではないでしょうか。

でも宮崎から明子のいる金沢まで訪ねているということだけでも愛情が感じられるよね

また、物語の中には思わず笑ってしまうようなエピソードも多数あります。

代表的なのが、教室の生徒「みっちゃん」に「チンパン子」というあだ名をつけた事件。
お弁当にバナナとリンゴを丸ごと持ってきたみっちゃんを見た日高先生が爆笑し、教室中が笑いに包まれるというくだりは、シリアスな場面の多い作品における数少ないユーモアの光景として、多くの読者の記憶に残っています。

このように『かくかくしかじか』では、恐ろしく厳しくて、だけど人間味があって、どこか憎めない先生と、調子がいいけど根は素直で頑張り屋の生徒という、対照的な二人の関係が描かれています。

読者や視聴者が涙を流すのは、単に「泣ける演出」や「いい話」だからではありません。

東村アキコがこの作品に込めた「言葉では伝えきれない人生のリアル」そのものと言えるでしょう。

シマエナガちゃん
シマエナガちゃん

「ねえ先生」と心の中で話しかけるシーンぐっときちゃう

東村アキコのプロフィールと代表作『かくかくしかじか』が生まれるまで

東村アキコ――その名前を聞いて、「笑って泣ける漫画家」とすぐに思い浮かべる読者も多いでしょう。

代表作に『ママはテンパリスト』『海月姫』『東京タラレバ娘』など、数々の大ヒット作を持つ彼女は、1999年のデビュー以来、圧倒的な筆力と独自の視点で女性の人生を描き続けてきた漫画家です。

そんな彼女が、キャリアの中でも特別な意味を持つ作品として手がけたのが、自伝的漫画『かくかくしかじか』でした。

1975年10月15日、宮崎県串間市生まれ
美術大学に進学しようと志した高校時代、彼女が出会ったのが日高健三先生(本名:日岡兼三)です。

絵の天才だと思い込んでいた自分を打ち砕くスパルタな教師との出会い、絵画教室での壮絶な練習の日々、そして美大進学後の挫折や葛藤――。

そのすべてを赤裸々に綴ったのが、『かくかくしかじか』なのです。

この作品は、2012年から2015年にかけて『Cocohana』(集英社)に連載され、第8回マンガ大賞および文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞をダブル受賞するという快挙を成し遂げました。

作品の最大の特徴は、漫画家としての成功の裏側にあった「人としての弱さと成長の記録」が描かれている点です。

彼女は若い世代から「どうやって漫画家になったのか?」「美大にはどうやって合格したのか?」と尋ねられることが多く、いつもこう答えてきたと言います。

「絵が上手くなる方法は、描くこと。とにかく、手を動かすこと。しんどいけど、それが全て。」

『かくかくしかじか』の制作には、日高先生との実際の記憶が忠実に反映されています。

彼女は自らの記憶力を「映像として明確に覚えている」と語っており、その結果、エピソードの一つ一つがリアリティと感情の深みを持っています。

シマエナガちゃん
シマエナガちゃん

最終回の製作は東村さんもスタッフも泣きながら仕上げたんですって!

また、2025年にはついに実写映画化が実現。

主演の永野芽郁が東村役を、大泉洋が日高先生役を演じました。

東村は脚本にも自ら参加し、美術監修や方言指導まで担当。

完成した作品に対して「一点の悔いもない、良い作品ができた」と語っており、漫画家として、そして“描かれる側”として、全身全霊で向き合った映像化だったことがうかがえます。

東村アキコの人生は、波乱万丈と言えます。

家族とともに転勤を繰り返す幼少期、大学時代のスランプ、大阪時代の貧乏生活、そして漫画家デビュー後の怒涛の日々。

それらすべてが、彼女の作品の骨格を形づくっています。『ママはテンパリスト』では母親としてのリアルな奮闘、『海月姫』ではオタク女子の成長、『東京タラレバ娘』ではアラサー女性の焦りと友情を描きながら、常に共通するのは「人間の弱さと強さを笑いと涙で包み込む視点」です。

そして、その集大成とも言えるのが『かくかくしかじか』。

この物語が読者に深く刺さるのは、主人公の未熟さ、迷い、涙、感謝といった誰もが一度は抱える感情を真っすぐに描いているからではないでしょうか。

SNSでは著名人も面白かったと絶賛していますね。

まとめ

この記事では、東村アキコが心から尊敬する恩師・日高健三先生の人物像と、その影響力を中心に、『かくかくしかじか』で描かれた二人の関係を紐解いてきました。

スパルタでありながら、絵と生徒に真摯に向き合う日高先生の姿勢は、東村アキコに「本気で生きること」を教えました。

映画化に至ってもその想いは変わらず、演者やスタッフとともに再現された日高先生の魂は、今なお多くの人の心を揺さぶり続けています。

タイトルとURLをコピーしました